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渋沢栄一は何した人なの?日本に残した功績や関連企業を徹底調査

渋沢栄一は何した人なの?日本に残した功績や関連企業を徹底調査
渋沢栄一は何した人?

 

2024年に紙幣が一新され、新一万円札の顔に選ばれたのが渋沢栄一です。

 

NHK大河ドラマ『青天を衝け』で俳優の吉沢亮さんが主人公・渋沢栄一を演じていることでも今、渋沢栄一という人物が気になる人も多いのではないでしょうか?

 

渋沢栄一は個々数年で一気に知名度が跳ね上がった人物ではありますが、もともと数々の功績を残したまさに偉人、自国である日本にももちろんその功績は残しています。

 

実は渋沢栄一に関連深い企業も多いんですよ!

 

今回は渋沢栄一という人物について、日本に残した功績や関連企業を調査しました。




渋沢栄一は何をした人なの?


渋沢栄一は何をした人か?

 

その偉業を挙げだしたらキリがありません。

 

今の日本には渋沢栄一が数多くの貢献をしてくださったことで残された影響力がどれだけ凄いのかは図書館で調べたら相当な時間を必要になりますので、今回の記事では特に大きな部分だけを取り上げさせていただきます。

 

個人的に渋沢栄一による特に際立った功績を下記に箇条書きで紹介させていただくと、

 

・500以上の企業設立・営業に貢献

・日本初の銀行・証券取引所を設立

・多数の大学を設立、教育の基盤を構築

・世界遺産「富岡製糸場」を設立

・日本赤十字社の設立にも関与、社会福祉に貢献

 

など、上記のうちのたった一つでも成し遂げることが出来たら、どれだけ多くの貢献と影響力を発揮出来たのか計り知れません。

 

そんな一つひとつの規模のでかい偉業を1人の人間がその先陣に立って成し遂げたのですから偉人の中でも、他者貢献や後世に残した影響力のでかさは凄まじいものがあります。

渋沢栄一が日本に残した功績とエピソード


(日本の首都東京だけでなく埼玉県に対する貢献の大きさも個人的に渋沢栄一という偉人を尊敬しているポイントです。)

渋沢栄一は、経営やビジネスで世界に影響を与えたあのドラッカーに認められた人物です。

 

その経営センスは、彼の幼い頃から発揮されています。

 

渋沢栄一埼玉県深谷市出身、実家は農家ということもあって、彼が14歳の時には仕入れにまで携わるほど手腕を発揮していました。

 

「商売に学問は必要ない」

 

が一般化されていた明治時代、渋沢栄一だけはこれからの時代は商売に学問は必要だ!と主張し、人としての規範や基準、道徳を重んじる「道徳経済合一説」を唱え、それは今の日本における経営の基盤にもなっています。

 

江戸時代には、フランスにも渡航して先進国の産業などを学び、フランスで得た知識がのちに500以上もの企業を設立する要因になりました。

 

渋沢栄一事業やお金の流れの仕組み作りがとにかく秀でており、その秀才ぶりは周囲の人間からも高い評価を受けていたようです。

渋沢栄一を高く評価した偉人たち

渋沢栄一は何した人なの?日本に残した功績や関連企業を徹底調査1
その証拠となるエピソードには、あの早稲田大学の創設者である大隈重信や上野の今でも名物の銅像として現代にも残る西郷隆盛がスカウト話を持ち込んだほどです。

 

そんな現代にも名が残り、その影響力がピークにあった当時の日本で最も影響力を持った人物から見込まれる能力や人格は今の時代にも彼のような傑物がいたらどのような国の舵取りをしてくれたのかが気になりますね。

 

実業家の顔だけでなく、社会活動にも打ち込んでいた渋沢栄一は、教育面でも「商法講習所(現在の一橋大学)」や「大倉商業学校(現在の東京経済大学)」の設立にも貢献しています。

 

明治維新の影響により多くの人が貧困に苦しむ中、渋沢栄一はそんな人々を救済するために「養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)」を設立、その後東京慈恵会や日本赤十字社の設立にも貢献しました。

 

そのほかにも、世界遺産にもなった「富岡製糸場」を設立したのも渋沢栄一で、当時絹の主要な輸出品として、富岡製糸場には最先端の製糸技術が集結していたと言われるほど、世界でも高く評価されていたのです。

 

渋沢栄一は、実業家、社会活動、さまざまな分野で活躍した人物、彼が日本の発展を築いた人物と言っても過言ではなく、新一万円札の顔に選ばれるのも頷けますね。

渋沢栄一と縁のある関連企業

渋沢栄一は何した人なの?日本に残した功績や関連企業を徹底調査2
今では当たり前のようにある「株式会社」ですが、この株式会社を日本で最初に誕生させたのが渋沢栄一です。

 

前述でも触れましたが、渋沢栄一500以上もの企業を設立・経営に関わった功績がある人物で、今なお彼が設立し、経営を続けている企業も多く存在します。

 

例えば「みずほ銀行」、1873年(明治6年)当時33歳渋沢栄一が日本初の銀行、「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立しました。


(先日あったみずほ銀行のATM障害は大規模なものでしたが、大河ドラマ『青天を衝け』の放送とも被って良からぬエモさも話題になりました。)

 

そんな現代のみずほ銀行のミスとは関係の無い設立当時の話に戻しますと、この時に日本で初めて口座が誕生し、仕組みを考案したのも渋沢栄一なんです。

 

ほかには「東京証券取引所」、株式会社といえば、出資金集めに株式を発行し、事業に参加するために投資家たちが株の投資をします。

渋沢栄一の立ち上げた日常生活に関連性のある企業

渋沢栄一は何した人なの?日本に残した功績や関連企業を徹底調査3
そうなると株の取りまとめる場が必要になりますが、そこで渋沢栄一が設立したのが証券取引所です。

 

明治時代、政府が外交に力を入れ始めた当時、宿泊業は不十分なものでした。

 

これから外来客を招き入れようとしている時に泊まるところが無いのは心許ない、渋沢栄一は、

”ホテルは一国の経済にも関係する重要な事柄。外来の御客を接伴して満足を与ふるやうにしなければならぬ゛

 

と築いたのがかの有名な「帝国ホテル」です。

 

更に、我々の生活に欠かせないガス

 

ガスが日本の生活に取り入れられたのは明治維新後で、当時は夜道を照らす街灯はガス灯でした。

 

その頃のガス事業は官営、つまり東京都が行っていましたが、渋沢栄一ガス事業にも乗り出し誕生したのが東京瓦斯、現在の「東京ガス」です。

 

他にも、嗜好品として大好きな方も多い「ビール」ですが、ビールの大手メーカー「キリンビール」や「サッポロビール」なんかも渋沢栄一が創立に携わっています。

 

渋沢栄一はビール好きだったわけではなく、どちらかといえば苦手だったという逸話も。

 

キリンビール」は創業当初「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」という名だった時に株主として会社の発展に貢献。

 

サッポロビール」は前「札幌麦酒会社」の発起人、その後経営にも関わっていました。

 

500以上の会社の設立、経営に携わった渋沢栄一

 

たぐいまれなビジネスセンスは銀行、ホテル業、ライフライン、飲料、さまざまな分野に発揮されています。

 

渋沢栄一について、調べれば調べるほど偉業ぶりの凄さは計り知れません。

渋沢栄一は何をした人なのかのまとめ

2024年からの新一万円札の顔に選ばれた「渋沢栄一」.

 

現在彼の生涯を描いた大河ドラマも放映されており注目を集めています。

 

渋沢栄一といえば、日本で初めての株式会社をつくり、500以上もの会社の設立、経営に携わった実業家で、あのドラッカーも認めた人物です。

 

そのほかにも大学や病院の設立など、渋沢栄一が携わった分野は幅が広く、実業家としての顔だけでなく、社会活動にも積極的に行っていました。

 

渋沢栄一が関わった数々の企業の中には、あのみずほ銀行帝国ホテル東京ガス、我々がよく耳にする大手企業があります。

 

もしかしたら読者さんが通う学校や会社にも、渋沢栄一の名があるかもしれません。

 

そんな彼は今は東京台東区の谷中霊園に眠っているので、もしも東京にお越しの際に、上野の周辺にいらっしゃる機会がればぜひ、お手合わせいただけたらと思います。

今回の記事も最後まで読んでくださってありがとうございました。